第9次調査現地説明会09.1.18
2009、1.17 特別史跡巣出古墳第9次 調査現地説明会資料 広陵町教育委員会 はじめに 巣山古墳は広陵町大字三吉に所在する古墳時代中期初頭の大型前方後円墳で、新木山古墳 (陵墓参 考地)と ともに馬見丘陵の中央部に集中する古墳群の中核をなしている。 周濠部分が農業用沼池として利用されているため、水位変動や波により墳丘と外堤の裾が大きく削り取られていた。このため、平成 12年 度から保存修理 と発掘調査を継続 して行つている。第 1次 調査では当初の墳丘規模が全長約 220mで あることが判明した。第 2次 調査では前方部北西隅から木製鋤、周濠北西隅から叡形木製が出上した。第 3・ 4次 調査は周濠泥上の凌渫工事中に発見された出島遺構の調査を行つた。第 5次 調査は周濠北東隅から準構造船の舷側板や波切 り板が出土した。第 6次調査は前方部前面、第 7次 調査では前方部西側 と周濠北東隅を調査 した。第 8次 調査は周濠北東隅から外堤の中央付近まで調査を行い、第 9次 調査では引き続き周濠北西隅まで行つた。 遺構の概要 外堤裾を確認するため幅 5.Om、 長さ90.Omで調査 トレンチを設定し、幅約 2mの 外堤葺石を検出した。 ト レンチの東端付近は輝石安山岩の板石を多用し、貼 り付けるように配置する。その西側では石材が急に変更される。丸みを帯びた長径 30cm前 後の含石糟石黒雲母安山岩を標高 47.50m付 近に基底石として配 し、長径 20 cn前 後の石材を小日積みにして縦目地を設ける。外堤葺石には基底石のある章石面と無い部分があり、基底石のある葺石面には縦 目地を確認 している。縦目地の幅は 160 cmの 中区画、80cmの 小区画があり、縦目地を境に石材の大きさが変わる。基底石の上から 6・ 7石 程で縦 目地を通 し、最上段の目地石は二段 目の横 目地に接続させている。二段目の横 目地は一段目の葺石を葺いた上に粘性の強い黒色粘土を裏込めとして積み上げ、二段目の葺石には輝石安山岩が多用される傾向がある。基底石の問や周濠底に樹根が残つており、築造当初の周濠水位は低いことが検証された。葺石裾からは鋤、掘棒、籠、板が出土している。転落した葺石に混 じつて出土する遺物は奈良 ・ 平安時代の土師器 ・ 須恵器片が多数を占める。この時期に葺石を筋 して幅約 60cmの 突堤や幅約 90cmの 取水溝、直径約 1.5mの上墳を作つてお り、当該期の木製品として顔が描かれた人形、卒塔婆が出土している まとめ 外堤草石の一部には基底石 ・ 縦 目地が認められるものの、積み方は墳丘に比べ雑で、葺石の基底ラインも波を打つていた。転落 している草石量は墳丘の5割 程度であることから、外堤斜面全体に葺石を施すのではなく、斜面の中程で止めていた可能性が高い。葺石材は二上山西麓から運ばれたことが判っているが、葺石面の石材が縦 目地を境に異なることから採取 した石材をどこかに集積することなく、 運びこまれた石材を順に葺いて行つたものと思われる。巣山古墳の周濠に水が溜まり始めるのは、奈良時代から平安時代で、北側に広がる寺戸遺跡の最盛期に周濠を濯漑用ため池に造 り変えていく様子を確認できた。人形は身の核れを祓つたり、病気の治癒を祈って自分自身の形代として作られるもので、井戸や溝など水に係わる遺構から出上することから、この時期に周濠に水が溜められようになつていったと考えられる。(広陵町教育委員会資料より)09.1.18 |
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同左 |
同左墳丘上部盗掘跡 |